AIが書いた文章を、使わないと決めた話

先日、AIに書かせた文章を読んで、使わないと決めました。

文法も構成も整っていて、要点も外していません。それでも、使いませんでした。読み返すと、感情が入っていなかったからです。誰が書いても同じになる文章で、誰かに何かを伝えようとする文章ではなかった。

AIを「社員」として使い始めて、はっきり分かったことがあります。もう、たいていのものは誰でも作れます。ホームページも、文章も、企画書も、画像も。ジャンルを問わず、AIに頼めばそれなりのものが出てきます。私は京都・滋賀で25年、中小企業の「社外Web担当」としてホームページの仕事をしてきましたが、正直、驚くほどの精度です。当社でもAIは毎日フル稼働していて、その様子は「AI社員実践記」という連載で公開しているくらいです。

では、誰でも同じようなものが作れるようになったとき、何が残るのか。

私は「誰が作っているか」だと考えています。

AIはあくまでAIです。将来どうなるかは分かりませんが、少なくとも今は、人のような感情や空気感までは感じられません。一方で人間には、経験や信条、考え方からにじみ出る態度や文面があります。それは一人ひとり違う。同じ道具を使っても、作る人が違えば、成果物のどこかに、その人独特の「ゆらぎ」が出ます。

そして不思議なもので、私たち人間は不安定な生き物なので、完璧なものより、そのゆらぎのほうに心が動いたりします。伝わる、刺さる、というのはたぶんそういうことです。冒頭の文章を使わなかったのも、整っていたけれど、ゆらぎがなかったからです。

だとすると、AIの時代に作り手へ求められるのは、技術の速さよりも、個性とアイデンティティなのだと思います。

このコラムは、そういう考えのもとで始めることにしました。ここには技術の話はあまり書きません。それは実践記の仕事です。ここに書くのは、私が日々どう考えて、どう判断しているか。仕事の話が多くなると思いますが、ときどき関係ない話も混ざります。

読んでいただいて、「この人となら話が合いそうだ」と思ってもらえたら、それがいちばんの成功です。

どんな人間かは、プロフィールに正直に書きました。よろしければそちらもどうぞ。

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